可愛い年月を

深追いしない、ということが、多分「楽に」生きていくためには必要なのだと思っています。目的語は、誰かを、でも、自分を、でもよいのです。majorityに成り下がる(もしくは成り上がる?)ためには、疑問を抱かず、ありのままを受け入れ、切断も接続もどうぞご随意に。このスタンスが必要なのだろう、と思っています。
これを学習したのは言わずもがなある種の諦めですが、万人受けするものだとはもちろん思っていません。「楽に生きる」ことと「幸せに生きる」ことはきっと違うのでしょう。いつわかるのか。死ぬ時かもしれない。そうしたら、「神様、教えてくださって有難う」と呟きたい。神様なんていなくてよいのですが。

わかってくれる人とわかってくれない人、というよりも、受け入れてくれる人とそうでない人、という分け方をしたほうが、わたしの気が楽です。そして、受け入れてくれるだろうと私が思っている人は、多分現実よりは少なめに見積もっているのですが(自己防衛の一種ですね)、まあそんなに悲観的になんなくてもいんじゃないの、とちょっと自分を試すつもりもあって(あるのかい?)、私の防御ラインを崩す場を作ってみました。

って、きちんと前置きしとかないと何もはじめられないこの臆病さよ。

mixitwitterfacebookに昔使っていたリアルタイム2つ(跡地)、オン用のブログ、自分用のブログ(更地)。もうこれ以上どう手を広げようっていうの?という気もするし、私のことだから突然雲隠れしたりしそうだけれど、まあ、自分を記録しておくことが必要なんじゃないかと思ったわけです。
なぜかって、自分の変化に一番気づけないことに気付いたから。

何でもいいけど、お友達にいただいた柘榴酒のお湯割りが本当においしい。