Is WORKING a thorny path?

最も好きな家事は何か、と訊かれたら、間違いなく一瞬のためらいもなく料理、と答えると思う。何故なら、最も努力が報われるから。かけた時間や労力がリターンに直結しているから。そしてそれが自分をかたちづくるから。極端に貧乏性なのかもしれない、特に時間について。
掃除とかその瞬間でしか綺麗であり得ないし、数時間もたてばどうせ汚れを見つけてしまう。汚さずには生きて行かれないのだから。

仕事でも日がなPCをいじっているのだから、仕事以外でPCなんぞ触りたくもないと思っていたけれど、やはり何かをペンと紙で書きとめるということは労力が要って、というか思考回路に書き留める動作がおいつかないため書いている傍から何かを忘れているような気持ちになって大変よろしくない。
そして、今更気づいてしまったのだけれど、私は日常で息づいている私という人間から、ある程度一定の時間距離を置くもしくは端的に言えば逃げるべきなのだ。べきかどうかはわからないが、もうこの10年ほどそうして生きてきたわけなので、今更自分から逃げる時間を抜きにして自分と向き合い続けることができる筈がないのだ、ということに気が付いた社会人生活半年ちょっと。

世の中にはパラレルで物事を考えることが苦手な人もいる、ということを知ったのはつい最近。そういう人たちにはきっと私は集中力では勝てない。と思いつつ、集中モードとパラレルモードをパラレルに使えれば可能なのでは?という気もしている。相変わらず冗長な文章だけは息をつく間もなく流れるように吐き出すことができる。

これもまた最近になって気付いたことなのだけれど、私がひとを悦ばそうと思ってしていないのにひとに喜んでもらえたことは、思いつく限り言葉を紡ぐことだけだ。そして、ひとを悦ばそうという心持はもちろんひとに歓迎されるものではあるものの、結局悦ばそうとしてやっていないのにひとのためになっていることのほうが無理がなく、無茶がなく、双方快いのではないか。
努力は正しいタイミングで正しい方法でされなくては、努力としては認められないんじゃないか、とおもう。

一新入社員として記しておきたいと思うのだけれど、働くということもまた、誰かの犠牲の上にしか成り立ちえないのだなあというのが、この半年の所感。
労働は罰だ、とそれでもやはり私は思う。キリスト教イエス・キリストの存在に、クリスマスくらいしか恩恵を得ていない私だけれど、一つだけ彼らが正しいとしたら「労働は罰だ」。
映画モテキ真木よう子が言っていた、「もっと自由に、もっと自分のやりたいように、っていうのはあんたじゃ無理なの」的なセリフ。映画のなかでは主人公であるフジに対する叱咤の言葉だけれど、これは暗に、「もっと自由に、もっと自分のやりたいように」と願ってそれが叶う人間もいる(フジはそうではないけれど)ということを意味している。
現実に翻ると、実際に昇進等して活躍しているのはこの「もっと自由に、もっと自分のやりたいように」が叶っているひとたちだ。彼らは口々に言う、「自分がやるべきことだけをやれ、それ以外のことはルーティン化するなりルール化(するなりして他人にやら)せよ」。モテキでは「もっと自由に、もっと自分のやりたいように」やれている人(=エリート)のアイコンとして山下ダイスケだかなんだかが出てくるけれど(そういえばなぜだろう、ダイスケという名前の人に他人の下についているイメージがないのは)、結局世の中は、エリートが自分がやるべきことだけをやれるように、エリートじゃないフジみたいな存在に自分がやるべきでないことをやらせて、まわっている。
私は別にこのシステムに異を唱えたいわけではない。合理的だし、自分が何をしたいかわからないからしたらいいこと、すべきことを教えてくれっていう人はいくらもいる。ある意味理に適っている、みんな幸せだ。
これは共産主義的思想? 型にはめるのどうでもいいけれど、私はやっぱりまだ働くということがどういう気持ちであるべきことなのかわかっていない。機械のココロで仕事するのが一番、楽ではあるということはわかったけれど。
苦しいから辛いから、その報酬として金銭が手に入るのか、だとしたらやはり労働は罰だ。けれど一度しかない人生、やりたいようにやればいい、という山下ダイスケ派もこの世にはいるのだ。山下ダイスケ派は、労働が罰でないとして、いったいどんな形で罰されるのだろう?